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私のてつがく

私のてつがく

盛岡市で活躍する気鋭の農家の方々の思いや考え方を「私のてつがく」として紹介します。

2020年7月22日

VOL 2 田村種農場 代表 田村 和大(かずひろ)さん

田村種農場 代表 田村 和大(かずひろ)さん

第2回は、種子の自家採種、自然栽培により米や野菜を育て、岩手県在来作物の作付けにも力を入れている田村種農場代表の田村和大さんの「私のてつがく」を紹介します。

2011年から種子の自家採種と自然栽培に取り組んでいます。新規就農者なので、農業委員会を通して盛岡市の羽場や湯沢近辺で空いた土地を借りて、地域に根付いた「在来種」の米や野菜を作っています。主に県内や関東の飲食店に卸しているほか、IT企業「SmartNews」さんのオーガニック社員食堂などにも食材として使っていただいています。

 

自然の中で、自然のままに育てる

今年は新型コロナウイルスの影響を考え、2月の時点で生産計画を変更しました。例年だと6月には出荷する作物を作っていましたが、できるだけ生産時期を遅らせて、7、8月に出荷できるものに変更しました。今育てている枝豆は、しばらく作付されていない約3反の畑を借りて今年から始めました。なかでも夏香枝豆は極早生(わせ)品種で、種をまいて75日後には収穫の時期を迎えます。梅雨時期は作物に土が付くのであえて草刈りは必要最小限で留めています。雑草により雨による泥はねを防ぎ、保湿もかねています。

まだ実がなり始めたところですが、畑から枝豆の香りがするんです。青々として、綺麗ですよね。

 

一株当たり実が8割膨んだら収穫です。すべて手作業では限界があり、虫食いなどの手選別に時間を割けるよう、枝豆の脱莢(だっきょう)機を導入しました。

丹波の黒豆に匹敵するといわれる東北の黒豆・黒五葉、久慈の在来種である山白玉大豆も育てています。山白玉は大粒で昭和期までは岩手県奨励品種の大豆でしたが、新品種の導入や病気や害虫防除の農薬に弱いことから栽培されなくなった品種です。大豆はもともと肥料を施さなくても優良の大豆がとれますから、中耕や排水管理など大豆が育つ環境を整えることに力を入れています。種をまいてからは毎日、生育のチェックを行っています。

20代は東京でSE(システムエンジニア)として働いていました。仕事は楽しかったのですが、忙しいときは家に帰るのは月2、3日ほど。そんな生活を続けていたら、身体を壊してしまいました。30代は岩手で農業をやろうと決意し、2011年3月1日に盛岡に帰りました。

農業を始める準備をしていたとき、東日本大震災が起きました。注文していた農業資材や種はもちろん届かない。遠いところから何かを運ばないと農業ができないことに、危機感を感じました。届かない資材の中で身の回りで確保できたのは、地物の種でした。「自然の摂理で種は毎年、採れるのだから、種子を採種していこう」。同時に岩手の風土や文化、土、地形も学んでいこうと思いました。

栽培当初は栽培方法に合わせて品種を選んでいましたが、やっていくうちに、「このやり方は違うな」と感覚的に感じました。逆なんですよね、本来自然があって人間が存在できる。その気づきから、作物に合わせて圃場を選び、栽培方法を決めることにしました。作物にはその作物に得意な菌が共生関係を築いており、人間の都合ではなく、野菜を観察して育てないといけない。虫がつくタイミング、病気になるタイミング、その過程は非常に重要で、「どのようにこの状況をこの野菜は乗り越えるのか」を観察する良い機会、経験になりました。今も観察と実験を繰り返しています。

■管理には、先進技術も活用

 米は「羽場五百万石」と「岩手亀の尾1号」を作っています。酒米の「羽場五百万石」は震災の年に新潟まで研修に行き、そこでもらった10本の稲を実家の田んぼの隅に植えたところから始まりました。「五百万石」という品種でしたが10年経ち、全く別物になったので、地名を頭につけて「羽場五百万石」と名付けました。今は1丁6反歩まで増えました。最初は本当に美味しくなかった(笑)。3年目までは食味では美味しくなかったのですが、データを記録し、気候に合わせて種まきの量や代かきの方法を変えるなどいろいろと試したところ、4年目に突然美味しくなったんです。おそらく自分がどうこうしたからじゃなく、この羽場の風土に合ってきたのだと思います。

 

 大正から明治期までの短い期間しか岩手では栽培されていなかった「岩手亀の尾1号」は種を探すところから苦労しました。秋田県大曲市まで行き、当時の水稲の文献を見せてもらいました。青森、岩手県内くまなく回り、やっと公共機関に保存されていた種もみに出会いました。「亀の尾」の系譜を引き継いでいるので早生で、冷害にも強い。無肥料でも収量がある程度とれる。とても岩手に適した品種でした。

 農業を志し、10年でやっと「スタート地点に立った」と思っています。次の10年の目標は、「水」です。震災の時から抱いていた目標の一つでもあります。どんな状況になろうとも水量豊かでミネラル豊富な水がこんこんと湧き出る場所がその地域の各所にあるようにしたいと考えます。その為には、山の整備が必要です。水を貯えるため、相応の木々を増やし、次の世代にもしっかりと残せる水場を作りたいと思います。

 収量だけ見ると、近代化は食料生産という意味では良かった。今の時代だからこそ、IOT(モノのインターネット)でGPSも使え、収量も下がらず、うまく管理できます。管理のために先進技術をもった機械は導入するけれど、田畑に「投入」する資材や栄養素は自然からの循環からの方がよりいい。そうすれば稲は健全になり、食べる私たちも健康になれる。ここ10年ずっと肥料も買っていないし、まいてもいません。いろいろな人が見学にきますが、自分が何を言うよりも結果がすべてだから、実際に見てもらうしかない。稲の病気の中で最も被害が大きい「いもち」が穂についていないのを見てもらうしかないんですよね。

 

■“うまく作ろう”としない

果菜類はいま、盛岡きゅうりや南部長茄子、南部大長南蛮などを育てています。

盛岡きゅうりは、シベリア系キュウリで現代の栽培方法ではほとんど収量がとれませんでした。そこで同系のキュウリを栽培している山形県酒田市や岩泉町で栽培されている農家さんを訪ね、勉強しました。今の環境の中で変化したキュウリを観察で見つけ、ストレスのかかる環境にも耐え、病気や虫に耐えたものから採種しています。人間に合わせてうまく作ろうとしたキュウリではなく、自然環境に適応したキュウリを育てているという感覚です。根菜類の話になりますが、東北の一番の課題は、越冬です。大根やカブなどは通常は越冬させるために、一回土室(つちむろ)にいれますが、そうせずに植えたままで越冬したものから種子をとっています。人の手で選別すると種がつく房が小さくなったり、気候に対応できなかったりと、品質が劣化する傾向にあります。自家採種は、人為的な選抜はせずに、季節毎に変化を遂げ、花が咲くまで生き抜いた作物から種子をとるようにしています。

■盛岡ならやりたいことができる

昔から割と何でも器用にやれる方だと思っていましたが、農業だけは全然うまくいかなくて、自然界だとこんなにも自分は無力なのかと痛感しました。毎日悔しくて不安で、がむしゃらに働きました。そんな働き方をしていたので、30代後半は熱中症にもなりました。40代は無理なく無駄なく、目的と目標をしっかり見据えて、朝仕事と夕仕事に分けて、「もう一仕事やれるかも」というところで一日の仕事をやめ、余裕を持たせるような働き方をしています。そのためにも段取りは重要です。焦ってバタバタにならないようにしっかりと準備する。余裕がないと仕事が楽しくなりません。

正直、農業を取り巻く環境は毎年厳しくなる一方です。ですが、困難な環境の中でも、できることを探し、制限があるならばどうにかして工夫する。環境が整ってないなら、整ってないなりの経験が積める。そして、作ったものが届けた先で「美味しかった」と言ってもらえたら、一番うれしいですよね。

 東京から戻ってきて、岩手、盛岡だからこそ本当にやりたいことができています。すでにあった豊かな自然に感謝し、生きる糧の農産物が豊かに育つ環境作りに存分に時間を費やしたい。これからさらに山や川の自然環境を整えていきながら、農産物の売り上げの数パーセントを、これからの未来の担う岩手の子どもたちへの基金を作りたいという夢もあります。

いつか、座ったら自動的に餅とあんこ、お漬け物がでてくるような茶屋っこを仲間とやりたいですね。

苦労した10年があったからこそ、今、農業が楽しいって思えます。

 

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